Shingu City

新宮市は、和歌山県の東南端に位置し、近畿最大の水量を誇る熊野川を隔てて三重県と接した山と海に囲まれたまちです。

市内には熊野速玉大社、佐藤春夫記念館、徐福公園、新宮城跡、浮島の森などの名所旧跡があり、望郷詩人とも言われた文豪・佐藤春夫、芥川受賞作家・中上健次、「はとぽっぽ」「お正月」などの童謡を作詞した東くめなど多くの著名人を輩出しています。

新宮市を中心とする熊野地方は、古代より聖なる地として信仰を集め、中世の時代には、熊野三山に至る道は「蟻の熊野詣」と言われたほど列をなし、熊野信仰の盛んなところでした。

熊野三山の一つ熊野速玉大社は、全国に3000余社分祀されている熊野神社の総本山です。 大社は熊野三所権現降臨の神倉山から神を遷し、現在地に新たに宮殿が造られたことから「古宮」に対して「新宮」と呼ばれるようになりました。 これが市の名前の由来とされています。

神倉神社では、毎年2月6日に1400年の歴史をもつ勇壮な火祭り「お燈まつり」が行われます。 この祭りは約2000人の白装束の男たちが松明を手に急な石段を一気に駆け降りるため「山は火の瀧、下り龍」ともうたわれています。

また、徐福公園は、秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の霊薬を求めて中国から渡来したという伝説の人物『徐福』を偲び造られ、色鮮やかな楼門や墓などがあります。

平成16年に世界文化遺産として登録された川の参詣道「熊野川」は、 平成20年に環境省による平成の名水100選にも認定され、その悠久の歴史と大自然を堪能できる「川舟下り」は大変好評を得ています。

市民の皆さまはもとより、遠方よりこのホームページをご覧くださいました皆さま方には、この機会に新宮の地にお立ち寄りいただき、「歴史」「文化」「自然」の誇るべき素材のほか「人情味」「進取性」を多少なりとも感じ取っていただければ幸いです。

Shingu City is located in the southeastern corner of Wakayama prefecture and is a city surrounded by mountains and the ocean in contact with Mie prefecture across the Kumano River, which boasts the largest amount of water in Kinki.

In the city there are historical sites such as Kumano Hayatama Taisha, Sato Haruo Memorial Hall, Xu Fook Park,
Shingu castle ruins, Ukishima no Mori. Many famous people such as Haruo Sato, a hometown poet, , Kenji Nakagami, Akutagawa winner writer and Kume Higashi who produced songs such as “Hato Poppo” and “New Year” are produced.

Kumano district centering on the city of Shingu, gathered faith as a sacred place from the ancient times, in the medieval era, the road leading to Kumano Sanzan is a row which is said to be “Ante Kumano-shi”, a row in Kumano faith It was a place.

Kumano Hayatama Taisha Shrine of Kumano Sanzan is the headquarters of the Kumano shrine that is worshiped for more than 3000 companies nationwide. Taisha got transferred from the Kamikura mountain of Kumano Hanshoko’s advent descending, and since the palace was newly created in the present place, it became called “Shingu” against “Konomi”. This is regarded as the origin of the name of the city.

At Kamikura Shrine, a brave fire festival “Lantern Festival” with a history of 1400 years is held on February 6 every year. This festival is also sometimes called “mountain is a fire taki, descending dragon” because about 2000 white-men buddies run down sudden stone steps at once with a torch in hand.

In addition, Xu Fook Park received the life of the Emperor of Qin and was made in memory of the legendary man “Xu Fook” who came from China seeking a longevity medicine for longevity longevity, there are colorful flower gates and tombs.

The river pilgrimage road “Kumano river” which was registered as a World cultural heritage in 2004 was certified by 100 Ministry of the Environment of Heisei by the Ministry of the Environment in Heisei 20 years, you can enjoy the eternal history and nature ” “Has been very popular.

To everyone who visited this website not only from the citizens but also from the distance, we had the opportunity to drop by the opportunity to visit the place of the Shingu, and in addition to the materials to be proud of history” “culture” “nature” “humanity” It would be greatly appreciated if you could feel somewhat of “advancement”.

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プッタネスカ

プッタネスカは、イタリアのパスタ料理用ソースの名称。スパゲッティを用いればスパゲッティ・アッラ・プッタネスカ (Spaghetti alla Puttanesca) 、リングイネを用いればリングイネ・アッラ・プッタネスカ (Linguine alla Puttanesca) が正式な名称である。

トマトソース・パスタのバリエーションの1つで、アンチョビやオリーブ、ケッパーの塩味や唐辛子の辛味を利かせた、刺激的なナポリの名物である。

名称は「娼婦風のパスタ」を意味する。名前の由来には諸説あるが、娼婦(puttana)は忙しいので、海のものも畑のものもごっちゃにして、ささっと作ったのが始まりだと言われる。

 

ナポリではこのソースをマリナーラとも呼び、油漬けのツナを加えることもある。1950年より以前は、プッタネスカという名称では知られていなかったという。なお、ナポリでは魚介類の入ったパスタにパルミジャーノ・レッジャーノなどチーズはかけないため、仕上げにオリーブ・オイルで炒めたパン粉をかける。

プッタネスカの作り方

【材料】
・黒オリーブ … 10~15個を輪切りに
・ケッパー … 大さじ1~2杯分
・アンチョビフィレ … 3~5枚
・にんにく … 2片
・唐辛子 … 5本ほどを輪切りに
・トマト缶 … 1/2缶
・パスタ … 200g
・オリーブオイル … 大さじ2
・塩 … お湯1リットルに対して大さじ1
・イタリアンパセリ … 適宜。あれば

 【注意点】

・ホールのトマト缶を使うときには、手でつぶすか、キッチンばさみで切っておく。
・にんにくは芯を取り除きます。一緒に使うと、先に焦げてしまう。
・オリーブの瓶をよく確認しましょう。塩水漬の場合には、塩抜きをする。

作り方(調理時間:15分)

①アンチョビ、にんにく、唐辛子を炒める

フライパンでオリーブオイルを温めてアンチョビフィレを弱火で炒める。形がある程度崩れたら、にんにく・唐辛子を入れて、さっと炒める。

②ケッパーを入れる

特に炒める必要はありません。すぐに次のステップに移ります。


③オリーブを炒める

オリーブを入れて軽く炒めます。

④トマト缶を加え、煮詰める

トマト缶を加えて、軽くゆすりながら煮詰めていく。時間にして、3~5分くらい。味を見て火を止める。トマトの酸味を確認する。トマト缶の種類によって違うが、3~5分で程よく酸味が残っている状態がよい。もしトマトの酸味が苦手の場合、多少長めに煮詰めて酸味を飛ばす。煮詰まり過ぎた時は、お湯かパスタの茹で汁で、ソースをのばす。

⑤パスタを茹でる

塩を加えて、パスタを茹でる。トマト缶を入れたくらいから茹で始めると、ちょうど良いかも。茹でる時間は、袋に書いてある時間から少し短めにする。1.6mm のパスタだと、袋には7分と書いてあることが多いと思いますが、6分20秒くらいが目安。

⑥パスタにソースを絡める

パスタの茹であがりに合わせて、フライパンの火を点ける(茹で上がりの20~30秒くらい前)。茹で汁の水分を飛ばすので、コンロの火は弱めの中火~中火。

パスタがパチパチいうくらいだと、ちょっと火が強いです。茹であがったパスタをフライパンに移し、おたま半分~1杯のパスタの茹で汁と、オリーブオイルを少し足す。普通のパスタソースよりも、アンチョビやオリーブの塩気があるので、絡める前のソースが少ししょっぱいと思ったら、茹で汁ではなく、お湯を足すとよい。
 

ソースの水分を飛ばしながら、パスタにソースを絡めていくフライパンをゆすりながら、菜箸かトングで激しくぐるぐる混ぜる。足したパスタの茹で汁の水分がとんで、とろっとすれば出来上がらい!時間にして、15~30秒くらい。

 

八咫烏

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コレステロールの管理はLH比で!

血液中にLDLコレステロールや中性脂肪が増えると、動脈硬化や心筋梗塞などの原因となる脂質異常症を引き起こすことが多くなります。この病気の患者数は中高年層を中心に、予備軍まで含めると2000万人以上にもなるといわれています。

脂質異常症は以前、高脂血症と呼ばれていました。しかしコレステロールの中でも、善玉のHDLコレステロール値については高いほうがいいことが判明し、現在は多くの病院で脂質異常症という名称になっています。

コレステロールは、リポたんぱく(脂質+アポたんぱく)というカプセル状になって血液中を移動します。体の隅々へ運ばれるものがLDLコレステロールで、余分に蓄積すると動脈硬化などの原因となるので「悪玉」と呼ばれます。

それに対して、体から回収されるものがHDLコレステロールで、余分なコレステロールを減らすので「善玉」と呼ばれます。HDLコレステロール値が高ければ、コレステロールの回収量も多いことを意味し、脂質異常症になりにくいことになります。

その脂質異常症の診断で最近、「LH比」が重視されていることを、ご存じですか。LH比とは、「LDLコレステロール値÷HDLコレステロール値」で示される比率のこと。たとえば、LDLコレステロール値が135mg/dlで、HDLコレステロール値が45mg/dlとすると、「135÷45=3」で、LH比は3.0となります。

例で示したLDLとHDLの数値(135mg/dl、45mg/dl)は、個別にみると、どちらも現在の基準では「正常」の範囲です。治療が必要とされるのは「LDLコレステロール値が140mg/dl以上」、または「HDLコレステロール値が40mg/dl未満」なので、どちらにも該当せず、健康状態ということもできます。

ところがLH比でみると3.0というのは、じつは動脈硬化が進んだ「かなり危険」な領域なのです。それはなぜでしょうか。まず、LH比が何を意味するのかを知っておきましょう。

悪玉のLDLコレステロールが血液中に増えると、血栓ができやすくなり、心筋梗塞などのリスクが高まります。そのため、LDLコレステロール値については、現在の診断基準をより厳しくしたほうが良いとの指摘が以前からみられました。

実際に、各地の病院における調査報告から、LDLコレステロール値が正常(140mg/dl未満)なのに、心筋梗塞を起こしたという例が非常に多いことが分かってきています。
一方、そうした患者さんの多くが、善玉とされるHDLコレステロール値が低いか、正常の範囲内(40mg/dl以上)であっても低めという傾向がみられます。

それらのことから、LDLとHDLは別々に考えるのでなく、両方のバランスが重要とされ、LH比はその目安として注目されるようになっています。

ではLH比は、どの程度ならいいのでしょうか。病院での調査例などから、LH比が2.0を超えると血管内のコレステロールの蓄積が増えて動脈硬化が疑われ、2.5を超えると血栓ができている可能性があり、心筋梗塞のリスクも高いことが指摘されています。その反対にLH比が1.5以下では、血管内がきれいで健康な状態です。

そこでLH比の目安として、「ほかに病気がない場合には2.0以下に」、また「高血圧や糖尿病がある場合、あるいは心筋梗塞などの前歴がある場合には1.5以下に」することが望ましいとする病院が増えています。

最近は健康診断で、LDLとHDL両方のコレステロール値を計測することが一般的になってきています。LH比(LDL値÷HDL値)は簡単に計算できるので、コレステロールを見直すきっかけにしましょう。

コレステロール・中性脂肪チ推移表(一例)
 
日付 HDL   LDL   総コレステロール   LH比率 中性脂肪
(基準値】 (40-90)   (65-139)   (150-219)     (30-149)
13/09/12 48 143 H 2.98 203
14/06/27 45 168 H 3.73 215
14/09/04 43 156 H 3.63 174
16/02/05 59 131 2.22 146
16/10/07 61 137 226 H 2.25 179

LH比を改善し、健康な血管を維持するためには、「悪玉のLDLコレステロールを減らす」ことと、「善玉のHDLコレステロールを増やす」ことの両方が大切です。

LDLコレステロールを減らす

①コレステロールの合成を促進しない
コレステロールの70~80%は体内(肝臓)で合成されます。摂取カロリーが必要以上に増えると、コレステロールの体内合成が促進され、LDLコレステロールが増えるので、基本は食べ過ぎないことです。腹8分目を心がけましょう。

②LDLコレステロールを減らす食品を摂る
コレステロールを減らそうとする場合、鶏卵や魚卵などコレステロールの多い食品を制限することが多いはず。その反面、コレステロールを減らす食品のことは忘れがちです。植物性たんぱく質(大豆や豆腐など)、水溶性食物繊維(海藻、きのこ、豆、根菜など)には、コレステロールを吸着し、減らす働きがあります。また、魚類(イワシ、サバ、マグロなど)に多い不飽和脂肪酸(DHAやEPA)は中性脂肪を減らすと同時に、心筋梗塞のリスクを高める小型タイプのLDLコレステロールを抑制する働きがあります。毎日の食事に、こうした食品を取り入れましょう。

③LDLコレステロールの酸化を防ぐ
血液中のLDLコレステロールが酸化すると、動脈硬化が促進され、血栓ができやすくなります。酸化を引き起こす最大の原因がタバコなので、禁煙をしましょう。また、酸化を防ぐビタミンCやEを多くふくむ食品(緑黄色野菜、ナッツ類など)をきちんと摂ることも忘れずに。

(※4)LDLコレステロールは小型化すると血管壁に吸収されやすくなり、血栓をつくり心筋梗塞のリスクを高めるので「超悪玉」と呼ばれます。中性脂肪が増えると、小型LDLコレステロールも増える傾向がみられます。

善玉コレステロールを増やす

善玉のHDLコレステロールを増やす最大のポイントは、適度の運動を続けること。とくにジョギングやウォーキングなどの有酸素運動は、HDLコレステロールを増やすのに効果があります。

どの程度の運動が効果的かは、個人差(年齢や健康状態など)がありますが、ウォーキングなら1日30分程度を週4日以上おこなうことを目安にしましょう。また、1日の歩行数が1万歩以上の人は、2000歩未満の人と比較すると、HDLコレステロールが平均で10%以上多いとするデータもみられます(厚生労働省『国民健康・栄養調査』)。

したがって、仕事などの関係で定期的な運動ができない場合でも、「できるだけ多く歩く」ことを心がけましょう。階段(昇り)は負荷が大きく、運動効果も高いので、駅や会社ではかならず階段を利用することも忘れずに。

また一般に、血糖値が高い人や肥満気味の人は、HDLコレステロール値が低い傾向がみられます。ウォーキングなどの有酸素運動は血糖値の改善、肥満の解消により、HDLコレステロールを増やすことにもつながります(ただし治療中の方は、医師に相談のうえで運動を始めてください)。歩くことには、もう1つ効用があります。動脈硬化は自覚症状がなく、気づかないうちに進行しやすいのですが、足には比較的早くサイン(危険信号)が出ます。

少し早く歩くと息切れを起こす、ふくらはぎが痛む、坂道や階段の途中で足が上がらないなどの症状がみられたら、動脈硬化の可能性があります。とくに、数百メートル歩いただけで足の痛みで歩けなくなり、少し休むとまた歩けるといったケースでは、「閉塞性動脈硬化症(太い血管の慢性的閉塞)」という危険な病気が疑われるので、早めに受診して検査を受けることが大切です。

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潮岬

shionomisaki1潮岬は、和歌山県の最南端にあり、突出した小半島となっている。東京の八丈島とほぼ同緯度で、本州では最南端に位置する。

岬は、火成岩のつくり出した高さ60m前後の隆起海食台地である。それが本土と砂州で連結されて、陸繋島をなしている。砂州上には串本の市街が広がっているが、岬周囲は大小多数の入り江が入りくみ、海食崖の発達が著しい。

気候は沿岸が黒潮に洗われるため、四季温暖である。暖地性の常緑広葉樹が繁茂して、いかにも南国的な情緒につつまれている。吉野熊野国立公園内の景勝地で、南に太平洋、北に紀伊半島の山並みを望み、東に大島をひかえて雄大な景観に恵まれている。

岬内には、潮岬灯台・下村海南記念館・望楼の芝・朝貴神社・潮岬観光タワー・潮御岬神社などの見どころがある。また、岬東端の出雲集落から平松集落まで、海岸よりを走る潮岬黒潮ラインが通じ、岬一周の遊覧が楽しめる。

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青岸渡寺

seigantoji熊野那智大社の隣に青岸渡寺がある。青岸渡寺は、元来、如意輪観音堂と呼ばれていた。平安時代末期に2代熊野三山検校行尊らによって観音霊場として喧伝された結果、西国三十三カ所観音霊場第一番札所として有名になった。

青岸渡寺の仁王門には、高さ3mを超える鎌倉時代後期作の木造金剛力士立像が安置されている。この仁王象は、本来、那智山全体の総門にあたる大門に安置されていた仏像であるが、大門消滅後、昭和8年(1933年)に仁王門が再建されたことにより、ここに安置されるようになったという。

本堂は大規模な9間堂で、建築様式と奉納された鰐口刻銘から、豊臣秀吉によって天正18年(1590年)に再建されたようである。入母屋造・杮葺きの建物で、大勢の参詣者が土足のまあ外陣に入ることができるように大空間がつくられ、熊野地方における桃山建築の代表的建造物とされている。

なお、本堂には、那智山経塚出土の仏像のうち、奈良時代のものと考えられる銅造観音菩薩立像や、平安時代前期作と推定される銅造如来立像、さらに平安時代後期の金銅大日如来坐像など、いずれも国指定重要文化財の8体の仏像、さらには室町時代の熊野本地仏曼荼羅図や熊野垂迹神曼荼羅図、「応仁元年(1467年)」銘の山上不動尊板棟札、本尊大黒天像などが保管されている。

なお、外陣には、巨大な鰐口がかけられている。この鰐口は、銘文から1590年に豊臣秀吉によって奉納されたことがわかる。さらに、本堂の北隅には、元亨2年(1322年)に建造された宝篋印塔がある。

鐘楼には、1324年建造の梵鐘があり、本堂の脇にはイヌグスの大木が茂っている。宝物館には、天正20年(1592年)作の阿弥陀如来坐像が所蔵されている。銘文により、奈良の下御門を拠点としていた「なら大仏師宗貞印」らによって創作されたことがわかる。

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三輪崎八幡神社

miwasaki-hachiman-jinja-120x86JR三輪崎駅の南西約150m、国道42号線沿いに三輪崎八幡神社がある。神社の例祭は9月16日に行われるが、その際に奉納される鯨踊りは、神社階段下と漁港前の広場で行われる。

「万葉集」に、「神の埼狭野の渡り」「神の埼荒磯も見えず」などと詠まれた三輪崎は、中世においては熊野新宮領佐野荘(現、新宮市三輪崎~佐野)に含まれていた。。佐野荘は元来、熊野別当家の嫡流新宮別当家の所領であったが、戦国時代には新宮氏(新屋氏、新氏)の領地とされ、さらに幾多の変遷を経て最後には堀内氏の所領になった。江戸時代、三輪崎には二歩口役所がおかれ、捕鯨の基地として栄えた。また、三輪崎鍛冶(※注1)の発祥地である。

佐野の沖積平野や熊野灘沿岸部では、弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡(佐野遺跡)が確認されている。佐野の砂丘一帯は、那智黒石の産地として有名であった。

JR紀勢本線紀伊佐野駅から国道42号線を南へ約700m行った王子橋バス停そばにある佐野王子跡は、若一王子ともよばれた。鎌倉時代前期頃に創祀されたと推定されるが、佐野王子の名前が初めて出てくるのは、文明5年(1473年)の「九十九王子記」である。明治40年(1907年)天御中主神社に合祀された。現在、跡地には宝篋印塔や石仏などが集められている。

佐野と那智勝浦町宇久井との境の山頂(61m)に和田森城跡があり、山の麓を熊野古道中辺路(現、国道42号線)が走っている。

「佐野下諏訪社」によると、元亀元年(1570年)~天正20年(1592年)に、堀内氏虎・氏善父子がこの和田森城に拠っていたようである。堀内氏は新宮に進出して戦国大名になるまで、和田森城の山麓(旧巴川製紙工場内の一角)に居館を構えていたという。城跡には堀切や曲輪が残る。

(※注1)町名にも残る新宮の鍛冶は、昔からの「入鹿(いるか)鍛冶」と「三輪崎鍛冶」とが合体して形成されたと言われる。9代新宮領主の水野忠央(ただなか)が、新宮萩野(はぎの)の地に製錬所を設け、鍛冶36軒を集めたが、そのほとんどが三輪崎鍛冶であった。故浜畑栄造は、三輪崎鍛冶のルーツを鈴島沖の砂鉄に注目し、当初は鏃(やじり)製造が主であったと推測している。鈴島に鍛冶一人が白馬に跨(またが)り、何処(いずこ)の国からか波に乗ってやってきたという伝説が残っている。

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丹鶴城跡

dsc05929熊野速玉大社の東方にある丹鶴山には、もともと、熊野別当家の嫡流である新宮別当家の別邸や、平安時代末期の大治5年(1130年)に源為義の女「たつたはらの女房(別名熊野鳥居禅尼)」が夫の熊野別当行範の死後、その冥福を祈るために創建した東仙寺や、熊野速玉大社の神宮寺であった崗輪寺などがあった。

慶長5年(1600年)、浅野幸長が甲斐国から紀伊国に入り、翌年、幸長の2男忠吉が新宮に入り、まず当地にあった東仙寺を他所に移し、縄張りを始め、元和5年(1619年)に丹鶴城(新宮城・沖見城)を築いた。

天守丸は大天守(9間四方)や小天守が付設された複合式であった。しかし、丹鶴城の築城工事そのものは、新城主となった紀州藩付家老水野重央(水野家初代)に引き継がれ、寛文7年(1667年)、3代城主水野重上の時代にようやく3万5000石の本城として完成された。完成時には、本丸の西に鐘の丸が、そしてその北に松ノ丸が別につくられていた。大天守閣は3層もしくは5層であったようである。

丹鶴山の西麓と東麓にある俗称ボッツリ山で、灰釉の古瀬戸壺2口および古瀬戸瓶子1口が発見されている。

なお、丹鶴城は、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、大正11年(1922年)には外堀も埋め立てられた。そのため、現在の城跡には、本丸と鐘ノ丸の石塁と発掘調査で確認された松ノ丸の石塁および土壁などが残存しているだけであるが、近年の発掘調査により、熊野川に面して設けられた水手門付近から炭納屋群13棟の存在が明らかになった。

 

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神倉神社

kamikura-jinja神倉神社(国史跡)は、熊野速玉大社の南西、千穂ケ岳(権現山、253m、国史跡)の南端に位置する神倉山(神蔵山、199m)の山頂から少し下ったところに鎮座している。神倉山は、JR新宮駅から踏切を越えて駅の裏側を西へ8分ほど歩いて、国道42号線を南にくだり、最初の曲がり角を右に折れた突き当りにある。

この神社の神体は、町中からはっきりと見える「ごとびき岩」と呼ばれる山上の巨岩である。昭和31年(1956年)に「ごとびき岩」周辺3カ所から、神倉山を修業場とした修験者(神倉聖)によって造営された神倉山経塚が発見され、平安時代末期の鏡面毛彫馬頭観音像・亀甲紋双雀鏡、湖州八花鏡、常滑刻線文経壷、陶製経筒、青白磁合子、鎌倉時代の金銅製十一面観音像・懸仏、室町時代の一字一石経石などが出土している。

さらに注目すべきことは、その下層から滑石製模造品、袈裟襷文銅鐸の破片が出土したことである。この信仰の背後には、原始以来の磐座(いわくら)信仰があったことがわかる。

神倉神社の祭神は、天照大神・高倉下命である。「倭国書記」に登場する「熊野神邑」の天磐楯が神倉山に比定されるところから、ここに高倉下命がまつられるようになったと考えられる。神仏習合に基づくその後の熊野信仰の隆盛により、神倉山は熊野権現の降臨地とされ、熊野速玉大社の奥の院となったが、その後、同社の摂社となった。

神社の境内には、本殿のほかに並宮と崖にかけられた拝殿(本堂)が設けられていたが、拝殿は台風により倒壊し今はない。山麓から「ごとびき岩」まで続く、自然石を巧みに組み合わせて作った538段の急な石段(国史跡)は、源頼朝によって寄進されたと伝えられるものである。現在、山麓には、大鳥居や太鼓橋などが設けられ、「下馬」標石(国史跡)も今に伝わっている。

例大祭の御燈祭(県民俗)は、毎年2月6日に実施されている。この祭りは、元来、旧正月6日の修正会に行われた火祭で、白装束を着た男たち数百人が、燃えさかる松明を片手に石段の途中から急坂をいっせいに走りくだる非常に勇壮な祭りとして有名である。

妙心寺(臨済宗)は神倉山の登り口にある。もとは尼寺で、本尊は愛染明王である。平安時代末期の12世紀初頭に天台宗寺院として開基されたが、鎌倉時代末期に法燈国師とその母親が住んだことにより臨済宗法燈派になったと伝えられている。当寺には、鎌倉時代の木鉢や、江戸時代前期作の聖徳尼・永信尼坐像などが所蔵されている。木鉢は仏具の一種で、僧侶が人家をまわり喜捨を請う托鉢の際に使用されたもので、法燈国師の遺品とされている。

八咫烏

 

 

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東仙寺

tosenji1王子神社(祭神稲飯命・三毛入野命)は、熊野速玉大社から阿須賀神社を経て、さらに海岸沿いに那智へ向かう旧熊野街道脇に鎮座している。県指定史跡の熊野九十九王子の一つで、浜王子とも称した。この付近を下熊野地というが、かつて市田川の左岸に源為義の10男・新宮十郎源野義盛(行家)屋敷跡があり、その子孫が新宮氏を名乗り、そこに代々住んでいたという。

王子神社の南西に東仙寺(真言宗)がある。大治5年(1130年)、「たつたはらの女房(別名熊野鳥居禅尼)」が丹鶴山に建立した寺で、幾多の変遷を経て現在地に再興された。その禅尼が祈念仏としていたのが、東仙寺の阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像・千手観音菩薩坐像の三尊像である。

県指定文化財の阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像はともに平安時代後期に制作されたが、千手観音菩薩坐像は古像を模して室町時代に新しく制作されたものである。

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徐福の墓と浮島の森

徐福の墓
JR新宮駅から東へ100mほど歩いていくと、徐福公園があり、そこは徐福の墓があった所と言い伝えられている。徐福は、秦の始皇帝の命令により、不老不死の薬を求めて数千人の子供たちを率いて蓬莱山に向かって船出したが、ついに帰国することなくその消息が途絶えたという。

倭国には、徐福が熊野地方に漂着し熊野で没したという伝えがあり、永和2年(1376年)に明に渡った絶海中津が太祖洪武帝に謁した際に、徐福の消息について尋ねられたことに対し、「熊野峰前に徐福の祠がある」と答えている。さらに、「紀伊続風土記」によると、慶長年間(1596-1615)の熊野新宮修営に際し、「徐福の墓」が築かれたようである。

現在、その地には中国から渡来した紀州藩の儒臣李梅渓筆の「秦徐福之墓」碑と藩儒仁井田好古撰の秦徐福碑が建てられている。なお、阿須賀神社の背後にある蓬莱山の名は、徐福がここに生育する薬草の不老不死の天台烏薬を採取したという言い伝えに由来しているという。

浮島の森
新宮駅から西へ7分ほど歩いたところに、浮島の森(新宮沢浮島植物群落、国天然記念物)がある。底なしといわれる湿地帯にある森(4962㎡)には、ヤマモモ・スギ・アカマツ・ヤブニッケイなどが群生し、それらの樹の下に生育するミズゴケの間に、温帯性のヤマドリゼンマイや亜熱帯性のテツホシダなどが混生しており、植物生態・分布学上貴重な存在である。

 

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